インドの話 2_19

 

ポッターに似ていると言われた事のある誼で、上映中のハリーポッター最新版を観てやった。英語はほとんど理解できなかったが、かわりにげに恐るべき事を発見した。

 

 

 

 1.映画は庶民の娯楽である。

 2.映画にヒンドゥー語の字幕が無い。

 3.子供の観客が多い。声を出して笑っている。

 

 

 

これら3つの事実から導き出される結論は「インド人は庶民であっても子供の時から既に英語を理解できている!」だ!庶民でも英語が身に付く環境が整っているのだ。

 

 

 

日本の友人から「インドパキスタン間の緊張が高まってきているので危険だ。帰ってきたら?」というありがたいメールが届いた。同日妹ヒロコからは「残り少ない自由を楽しんで!」というメールも届いた。さてどうしよう?ワールドカップが盛り上がっていて、そんなピリピリした雰囲気など微塵も感じられない、このゲストハウス。

 

 

 

 

朝も早い6時38分、カーリー寺院へ向けて出発、8時には到着して待機。訪れた目的はヤギだ。正確にはヤギが生贄に捧げられる儀式を見る為だ(6時~12時の間で日々行われるが、時間は不定)。なので気長に待つ事3時間、2頭のヤギが静まりかえった空気、というか、それまでと何ら変わらない空気の中、引き連れられて来た。

 

 

 

「芋づる式に…」という言葉を見たり口にしたりする事はあっても、実際日常生活で「芋づる」を見る事はほとんど無い。それと同様、殺戮を伴う行為を「聖なる儀式」と例える猟奇殺人鬼はいても、生贄を伴う真の「聖なる儀式」は彼も見た事が無い。

 

 

 

このヤギ達は死ぬのだ……これから間違いなく。今にでも贄が捧げられようとしている、その瞬間を見逃してはいけない!と人々が群がる事も無く、2頭のヤギはごくごく普段のまま、その首を使い込まれた刃で切り落とされた、そしてその生を終えた。

 

 

 

それは本当に余りにも呆気無い。だが、磁石のように手を合わさずにはいられない。それは恐らくヤギに対してではない、その儀式・営みを価値あるものと見做しているこのインドの社会に対してであろう。私は寺院を後にした。「それにしても、死ぬのって意外と…簡単にスパっといくもんなんだなぁ」自分の首筋を触りながら思った。

 

 

 

フルーツを買い込んで、ワールドカップ「日本VSベルギー」観戦。開催国日本から遠く離れたインドとはいえ、だらしなくバナナを咥えながらでは、同宿のみんなに顰蹙を買う恐れがある。そこで自分を盛り上げる為にも、手作り日の丸Tシャツを着て観戦!これでたとえみんながフェイスペイントしてたりユニフォームを着てたりしても大丈夫!と思いきや、そんな事を考えてたのは日韓合わせても私1人だけだった。

 

 

 

 

ユースケさんに借りた「深い河」を読んでいたら「カルカッタ滞在中の日本人へ。8日に領事館へお集まり下さい」との情報が入る。マザーハウスにFAXが届いているらしい。ボランティアしない奴には治安情報教えてやんね!という事か。これは早速今からでも奉仕したくなってきたぞ。が、私は明日チェンナイへ南下する予定だ。これだけ緊迫していても、南インドは相変わらず長閑で平穏な時が流れているはずだ。

 

 

 

いよいよ旅も残り1ヵ月を切った。ここまで無理なく健康的に体重を落としてきた私は、ついでだから「体重50キロ以下を経験してみたい」と思っていた。そこで断食こいつは減量に効果がある上に、腸内の宿便とやらもきれいさっぱり処分してくれるようだ。断食期間は72時間、そのうち最初の28時間はチェンナイ行き列車内だ。

 

 

 

断食はわずか24時間で終了した。朝の目覚めのチャイを飲もうと寝台ベッドからフロアに降り立った時、私の足はふらついてチャイの車内販売は去ってしまった。私は断食を諦めライチ20個を完食。「宿便が出て体重が2キロも減った!」と経験者は語ったが、宿便以前に断食しただけで体重が2キロ減っていた(53㌔→51㌔)。

 

 

 

この日もチェンナイ市内で滞在。45分歩いてスペンサープラザへ。ここは去年、まだインド2日目というスキだらけの状態で来ちまった所だ。あの時は、バクシーシに10ルピー札を7人ぐらいにバラまき、リクシャードライバーには貴重なカップスターラーメンをプレゼントしてしまうという信じられない体たらくであった。誰もが振り返る反省、それは「何故あの時の自分はあれほどNOと言えなかったのだろう?」

 

 

 

当時はリニューアル中でひどく野暮ったい感のあったスペンサープラザだったが、今回とても快適なショッピングセンターに変貌を遂げていた。これはチェンナイの認識を改めざるを得ない。プラザ内には「ランドマーク」という洒落た雑貨屋さんもできていて、その一角のカフェではTVオンエアもされていた。エアコンも効いていてすこぶる快適。明日のワールドカップ「日本VSロシア」戦はここで見る事に決めた。

 

 

 

帰り道、歩いているだけで何だか動悸が…。心臓が変だ!断食が祟って、心肺機能が弱っているのか?車のクラクションにびびって心臓にこたえる、そんな事ってある?

 

 

 

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持ち物が少なければ少ないほど、多く与える事ができます。矛盾としか思えないでしょう。でもこれが愛の論理なのですよ。  パンが無くて死ぬ人が数え切れないほどいます。そして同時に数え切れないほど多くの人々が、ちょっとでいいからその存在を認めて欲しいと願いながら、僅かばかりの生きる勇気を失っているのです。イエス

 

 

 

はそういう人々の姿で弱っていき、死んでいらっしゃいます。  男女を問わず自分のお金をいかに貯めるかで悩んでいる人は真の貧者です。  あなたは私の友達だから打ち明けるのですが、頭痛がしてたまらない時は、私は茨の冠をかぶせられた時のイエスの苦しみを思うのです。痛みが背中に移動した時は、兵士達が鞭打った時のイ

 

 

 

エスの痛み、そして私の手に痛みが走る時には、十字架に釘付けられた時のイエスの痛みを思う事にしています。  貯めれば貯めるほど、与える機会を失ってしまいます。持ち物が少ないほど、人々と分かち合う事も易しくなります。何かを下さいと神にお願いする時、同時に寛大な心にして下さいというお願いもしましょう。  今や

 

 

 

貧しい人々について語る事がひとつの流行になっています。しかし残念な事に貧しい人々と共に話す事を人はあまり好みません。  もし私達が謙遜ならば、ほめられようとけなされようと私達は気にしません。もし誰かが非難してもがっかりする事はありません。反対に誰かがほめてくれたとしてもそれで自分が偉くなったように思う事

 

 

 

もありません。謙遜は真理であるとも言われています。私達をイエスに似たものとする道は、謙遜の小径なのです。  私は親切にしすぎて間違いを犯す事のほうが、親切と無関係に奇跡を行なう事より好きです。  一緒に住んでいる人たちや、または血の繋がった親族といった人たちにほほえみかける事はあまり親しくない人々に対し

 

 

 

てほほえみかけるより難しい時があるものです。愛は近きより、という事を忘れないようにしましょう。苦しみそのものに価値はありません。キリストとその受難を分かち合えるものとなった時、私達の苦しみはこの世でもっとも尊い賜物となるのです。

 

 

 

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