うどんの話 2

 

 

宮津ロータリークラブの会員の皆様、はじめまして。

ただいま、ご紹介いただきました山崎正人(38)です。

 

 

 

家は、天橋立の府中側にありまして土産店「すぎのや」を代々営んでおります。場所は、籠神社の前、神風楼さんの隣の隣になります。30年前、父の代に店を立て替えまして、新たに喫茶店「リビエラ」を土産店に併設しました。それから30年後、現在は再び、店舗改装の真っ最中です。大きく変わる点は、喫茶店の部分です。新たに「本格手打うどん すぎのや」としてオープンします。今月末の冬花火にはオープンできるようにと、がんばっております。

 

 

 

その改装の準備を昨年から進めておりましたが、では、それまではどこにいたか、というと香川県にいました。約8年間です。

 

 

 

現在、香川県は「うどん県」とさかんにうどんをPRしておりますが、私がいたころは、ちょうどうどんブームが盛り上がっていったころでした。瀬戸大橋の通行料金が1000円になった時が忙しさのピークで、関東からの食べ歩きのお客さんや日帰りツアーの大型バスが1日3、4台ときて、大変おおにぎわいでした。

 

 

 

しかし、私の中でのさぬきうどん食べ歩きブームはもっと早く、1999年に目覚めました。私も元はといえば、食べ歩きにはまった一人なのです。食べ歩き(3年)の後、お店で修行を4年半・お店の責任者である店長を3年半。讃岐うどんブームの中3つの異なる立場でうどんに関わって、いろいろな経験ができました。今日はこうした経験をお話したいと思います。

 

 

 

食べ歩き

 

 

 

大学を卒業した後は、滋賀県にある会社でパソコンやコンピュータに携わる仕事をしていました。休みのたびに香川にうどんを食べに行くようになって、時には月2回行くことも。穴場のうどんやさんをメインに何店か行くわけです。穴場のお店はたいていたたずまいが怪しいんです。

 

 

 

「なぜそこまで讃岐うどんにはまったか?」一言でいうと「自分の中にある、今までのうどんやのイメージが通用しない。固定観念が壊れるのが快感だったから」といった感じでしょうか?

 

 

 

たとえば、ネギを自分で畑から取ってくる。うどん工場の稼動ラインを眺めながら食べる。マイ丼をお店に持ち込んで、うどんを入れてもらってマイ箸とマイ醤油で食べる。食べている人々の群像もなにか違う。午前0時のサラリーマン・放課後帰りの女子高生。香川県以外ではありえない光景です。

 

 

 

参考までに「個人的にありえないNo1」は橋本農機というお店でした。農機具屋さん、なのに、うどんも作っている。意味がわからない。

 

 

 

怪しく意味不明、そしていい加減(いい意味で)なのに、うどんはしっかりうまい。このような穴場のうどん屋が、リアルタイムで月刊タウン情報誌にアップデートされ続けていくので、次から次に行きたくなる。この世界を知ってもらいたい!と誰かを連れていきたくなる。すっかりはまって、仕事をやめても相変わらずうどんばっかり食べていたら、こんな表彰状をもらうはめに。

 

 

 

讃岐うどん88箇所巡礼(スタンプラリー)。仕事を辞めてまでして、うどんや巡礼を達成した覚悟が称えられた?表彰状の最後には「今後はその探究心を他のものにも活かすように」と親切にアドバイスまでいただきました。

 

 

 

いつしか行ったお店は200店を越えました。当然うどんを見る目も厳しくなってきます。初めてのお店は怖い、なぜなら死活問題だからです。

 

 

 

何店も食べる → おなかが膨れる → おいしいうどんはまだ食べられるが、そうではないうどんはのどを通らない。時間だけが過ぎていく。

 

 

 

そうした悲しい経験を経て培われた3つの流儀?があります。お店に入ると、まず

 

 

 

   1.厨房を見る(うどんがゆでたてか作りおきか?)

   2.メニューを見る(麵が古くてもメニュー次第でうまく食べられる)

   3.新聞類をチェックする(気を紛らわすことができる)

 

 

 

とりわけ初めて行く店には、このようにいろいろと気を使ったわけですが、「すぎのや」で出すうどんは常に茹でたてが基本です。いつ行っても間違いなく茹でたてが食べられる。「今日は茹でたてかな?、すこしお昼時過ぎてるし作り置きかもしれないな…」といった(過去の自分が感じたような)不安を取り払いたいのです。

 

 

 

一方、作ることに関してはこのころは決して手出ししませんでした。というか深すぎてできなかったのです。食べれば食べるほど、いろんなタイプのおいしいうどんに出会った。バラエティに圧倒されて、どんなうどんを作って食べたいのか方向すら絞れなかったのです。

 

 

 

修行

 

 

 

食べ歩きをしながら、いつしか修行も視野に入れるようになっていきました。では自分はどんなうどんが好きなのか?

 

 

 

いろんなお店の中から修行先を決めるきっかけになったのは、数ヶ月に及ぶインド1人旅でした。過酷な食生活と気候に心身ともに消耗させられました。日本食が食べたい!という思いが積もり重なるとどうなるか?夜な夜な妄想に走るわけです。

 

 

 

「発表します!いまこそ食べたい日本食ベスト5!……栄えある第1位は!!!」

 

 

 

「おか泉」のざるうどん。キリッと冷えたダシに、弾力と優しさを併せ持つ魅惑的な麺を浸けて、シンプルにすする喜び……。

 

 

 

こうして修行先は迷うことなく決まりました。むなしい妄想も無駄ではなかったのです。この麺とダシのためなら数年費やしたとしても構わない。そんな覚悟をしながら帰国。こうした経緯が、修行で困難なことがあっても辞めずに続けられた背景といえるかもしれません。思い入れが弱いままに修行に臨んでいたら辞めていた可能性が高かったはずです。面接時に社長も「この子、大丈夫か?」と不安視されていたほどでしたから(後日談)。

 

 

 

ここで私は自分の理想とするうどんがさらに見えてきた、ある思い出があります。

 

 

 

毎朝、社長は修行生の打ったうどんを食べてチェックされますが、ある朝のこと、私の打ったうどんを食べて「これがおか泉のうどんや!」と熱く訴えてこられる。どんなうどん?あまり褒められたことが無かったのでリアクションに困りましたが、おそるおそる食べてみたら確かにいつもより1段上のレベル。社長の言葉をお借りすれば「滑らかなのどごしと弾力ある歯ごたえ」。口の中で暴れた後にのどに落ちていく。

 

 

 

この時の感覚が「うまいか、まあまあか」という麵の基準の境界になっているような気がします。これが一番うれしかった点です。

 

 

 

逆に一番つらかった点は、

 

 

 

ある日、うどんを打つテーブル(打台)の掃除を怠って、帰宅後に店に呼び戻されたときのことです。ものすごい勢いで社長が階段を駆け下りてくる音が聞こえ、現れるやいなやどつかれる。いちばん重要で花形なポジションをまかせてもらえているのに自覚が足りなかった。この夜は、自分の部屋のベランダから瀬戸大橋を見つめながらしばらく落ち込んでいました。

 

 

 

苦労した点は、

 

 

 

技術的には、うどん打ちが一番苦労しました(今でもしていますが)。振り返ってみると、習得するまでに大きく4つほどの難関があったように感じます。1枚たった5分の作業の中に4つも…

 

 

 

   1.すかし打ちという、ある日突然できるようになる(かもしれないし、

     いつまでもできないかもしれない)無慈悲な技術。

 

 

   2.生地の厚みと切り幅の正確性。特に厚みは、切るまで目に見えない。

 

 

   3.素早く打つこと。長く時間をかけて打つと、生地が傷む。

     そもそも1枚6分のペースだと、うどんが足りなくなる。

 

 

 

   4.おいしく茹であがるか?

     変な癖がついていたり無理な力を加えていたりすると固いうどんになる。

 

 

 

1~3まででも大変でしたが、一番苦しんだのは4でした。私の打ったうどんは、なぜか固く茹で上がりも遅い。同じ生地を打った先輩の麵と比べてもまったく違いました。打ち方が悪い、何か悪い癖があるということです。

 

 

 

あれだけうどんを食べて、うどんを愛していたのに、うどんに愛されていなかった!「人並みのセンスも無かった…。ま、そんなにうまくはいかないか…」と両想い?は諦めて、どこが悪いんだろうと試行錯誤。数週間に及ぶ苦しい時期でした。

 

 

 

麺棒を手前に戻すときの動き。それは傍目からはまったく分からないほんの一瞬の癖でした。自分で解決して前述のとおり認められるうどんが打てるまでになりました。このとき悩んだ経験が、店長になった時に指導面でプラスに働いた気がします。

 

 

 

店長

 

 

 

こうした苦労を重ねながら、一通りの技術を習得させてもらい、2007年に宮津に戻りました。「いざ、開店!」と前のめりで意気込むも、やる気が空回りしまして、翌2008年に再び香川に戻りました。今度は、店長としてうどんに携わる機会をいただきました。

 

 

 

店の責任者ということで、仕事内容も変わりました。打台・釜・天ぷらといった個々のポジションには入らず、店頭に立ってお客様を案内することがメインに。このポジションが一番全体を把握できて、適切に動くことができるからです。

 

 

 

必然的にお客様に触れる機会が増えて、特にうどんの食べ方や要望について、さまざまなご意見に触れることができました。

 

 

 

たとえば、天ぷらうどん。「天ぷらを別のお皿に盛って出してほしい」とよく言われました(コロモがダシに浸ってふやけるのが嫌だから)。すぎのやでも、別のお皿に出して提供しようと思います。

 

 

 

こちらからお客様に食べ方を提案することもあります。数年来のある常連さん。夏は決まったメニューを注文するのに、寒くなってくるとメニューに悩み始める。私も1年中うどんを食べてましたから、なぜメニューに悩むのか心当たりがありました。そこでさりげなく好みに合うようなアレンジを提案する。「うまかったよ」と言ってくれて、次回からその注文が定番になりました。

 

 

 

【補足】おそらくその悩みとは「熱いぶっかけが食べたい(がメニューに無い)」でこれに対して提案したのは「釜天のお湯抜き」でした。

 

 

 

1年の移り変わりを通じて、お客さんがどんなうどんをいつごろ食べたいのかが何となく分かってきました。

 

 

 

このように営業中は店の入り口に案内業務。しかしそれ以外にも、売上管理・シフト作成・従業員トレーニングなど店長業務がかなりあるので時間が足りなくなってきました。このとき活きたのが、前職のパソコンの知識。業務内容やトレーニング内容・売上集計を全部効率化・マニュアル化して、よけいな手間を極力なくしました。結果店長が休んでも店が回るという状況が可能になりました。

 

 

 

そうしたおりタイミングよく(?)社長が、長期出張のチャンスを与えて下さった。社長が讃岐うどんの代表としてクルーズ船に乗って、海上でうどんを乗船客に振舞うというもので、私もスタッフとして同行することになったのです。そのクルーズ船というのが、去年秋舞鶴にも寄港しました飛鳥Ⅱです。

 

 

 

私が乗船したのは、その数ヶ月前の世界一周クルーズです。区間はストックホルム~ニューヨークまで。途中で、北極圏に入ったり、ノルウェーやアイスランドに寄港したり、という私の新婚旅行より豪華なルートです。通常、世界一周は2人で1000万円以上するそうで、一部分の航路でしたが、仕事で乗れて泊まる部屋はゲスト扱い(水面下の部屋ではなく)という恵まれた経験をさせていただきました。

 

 

 

反面、プレッシャーも。乗客全員うどんのわかる日本人とはいえ、舌の肥えていそうな裕福な年配の方ばかり。飛鳥Ⅱの船内でのべ1000日以上過ごしていらっしゃる方や、有名な製菓会社の会長さんや、なにやらとてつもないすごいオーラのある白ひげの方や。たいして、メディアにでてくる讃岐うどんといえば、セルフや製麺所のような庶民的な店ばかり。讃岐うどんが受け入れられるか心配です。

 

 

 

慣れない厨房の中、船酔いもするし、食材の予備もないなど、厳しい状況でしたが、幸いにもお客様には好評でありました。コース料理に飽きていたせいもあるんでしょうか、茹でたてのうどんは非常に喜んでいただけました。

 

 

 

クルーズも終盤、ニューヨーク手前あたりでは、最上階の温泉につかりながら「来年はブラジルあたりを通るルートかなぁ?」と早くも来年のクルーズに乗ることを夢見ておりましたが、家内の事情もあって昨年秋に宮津に帰ってきました。

 

 

 

こうしたさまざまな経験が、うどん店の設計にふんだんに活かせられたのではないかと思っております。改装にあたっては、現在も井上建築さんに大変お世話になっておる最中です。イメージどおりきれいな店舗ができそうで大変感謝しております。

 

 

 

今後も、初期の食べ歩きをしたときの「お客さん」の感覚を忘れず、「店主」という新たな4つ目の立場で、うどんに取り組んでいきたいと考えております。ありがとうございました。